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写真たっぷり!談山神社のけまり祭【飛鳥地方おさんぽガイド】
2024.10.31
春は桜、秋は楓。雅な庭に舞う白い鞠。
飛鳥地方東部の多武峰(とうのみね)の山中にある古刹「談山神社」。
奈良県下随一の桜・紅葉の名所であり、四季折々に見せる境内の美しさから「西の日光」と呼ばれています。
談山神社では毎年春と秋の二回、けまり祭が開催されます。
鮮やかな衣装に身を包んだ鞠足たちによる迫力満点の蹴鞠を見物してみませんか?
Contents
藤原鎌足公を祀る山の上の神社
「大化の改新」の立役者たちが談い合った山
-
談山神社のある「多武峰(とうのみね)」とは、奈良県桜井市南部にある山と、その一帯にあった寺のことを指しており、この場所は神仏分離以前には多武峯妙楽寺という寺院がありました。
現代では桜や紅葉の名所として名高い談山神社。
その名は中大兄皇子と中臣鎌足がこの山に登り極秘の談合を行ったことに由来します。
また、談山神社で行われるけまり祭も、ふたりの出会いにまつわる故事から斎行されています。
乙巳の変、そして新時代「大化」へ
- 622年に摂政の聖徳太子が亡くなると、豪族が勢力を増し、中でもその頂点であった蘇我氏の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子は天皇を差し置いて政治を思うままにしました。
蘇我氏の暴挙に危機感を抱いた中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、法興寺(現在の飛鳥寺)の蹴鞠会で中大兄皇子(のちの天智天皇)と出会います。
親交を深めたふたりは山に登り、蘇我氏体制を打倒するための密談を行いました。
この山は後に「談い山(かたらいやま)」、「談所ヶ森」と呼ばれ、談山神社の社号の由来となりました。
中大兄皇子と中臣鎌足はその後、皇極天皇四年(645年)に日本初のクーデター「乙巳の変」によって蘇我氏を滅ぼしました。
この乙巳の変から一連の国政改革を「大化の改新」といいます。
その後の鎌足と談山神社の始まり
- 中大兄皇子は、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制しましたが、白村江の戦いで大敗を喫した後、近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し即位、天智(てんじ)天皇となります。
中臣鎌足は天智天皇八年(669年)、病床を見舞われた天智天皇から「藤原」姓を賜り「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」となりました。
さらに人臣最高の大職冠と大臣の位を授けられ内大臣に任ぜられましたが、鎌足は翌日に逝去。
その後、摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に埋葬されましたが、白鳳七年(678年)に長子で僧である定恵(じょうえ / じょうけい)が唐からの帰国後に鎌足の墓を多武峰に移し、その墓の上に十三重塔を造立し、談山神社の発祥となりました。
談山神社のけまり祭を楽しもう!
秋のけまり祭の見物へ行ってきました
さて、談山神社では例年4月29日の昭和の日と、11月3日の文化の日にけまり祭りを斎行しています。
春は瑞々しい新緑が、秋は色づき始めた紅葉が美しい境内を背景に、色とりどりの装束をまとった鞠足の技を見ることができる行事です。
今回は秋のけまり祭見物レポートをお送りいたします。
駐車場から談山神社入山入口へ
- 2023年11月3日。午前9時に談山神社第1駐車場へ到着しました。
談山神社へのアクセス方法は、近鉄・JR桜井駅からコミュニティバスを使うか、自動車のいずれか。今回は自家用車で訪れました。
(その他にも明日香村←→多武峰のハイキングコースもありますが…今回は割愛)
談山神社周辺には第1~5駐車場があり、収容台数は全て併せると約200台ほど。第1駐車場が最も広くなっています。
紅葉にはまだ早い時期とはいえ、午前9時段階ではまだ第一駐車場に駐車している車は数台のみでした。
駐車場から出ると、道路を挟んで真正面に談山神社徒歩入口の看板が出ています。
こちらは談山神社方面へ近道となっており、階段を使って行き来します。手すりが付いていますが少々急な階段です。
談山神社境内も階段や坂道が多いため、履物は運動靴など徒歩に適したものでお越しください。
また、唯一有料となる第5駐車場は談山神社入山入口に最も近い場所にあり、緩やかな坂道のみとなります。
足の悪い方は、有料となりますが第5駐車場のご利用がおすすめです。
- こちらは参道途中にある石灯籠。
重要文化財 後醍醐天皇御寄進 石灯篭
竿に、南北朝動乱の始まった年、元徳三年(一三三一)の刻銘をもつ雄大かつ装飾性豊かな造りで、天皇の御寄進と伝えられている名品。
談山神社
サラッと大変歴史深いものがあって驚きです。
第1駐車場から徒歩5分ほどで談山神社の入山入口へ到着。拝観料は大人1名600円。けまり祭はこの拝観料のみで見物できます。
入山時に、拝殿と神廟拝所に入る際に履物を入れるビニール袋を受け取り、大鳥居をくぐります。
さっそく「鞠庭」へ。
広大な談山神社。大鳥居をくぐると約140段ほどの正面階段があり、これを上ると談山神社の拝殿に到着します。
今回はひとまず階段の途中で左折し、境内西側にある蹴鞠の祭場へ向かいました。
祭場に到着。既に蹴鞠を行うための幕が張られ鞠庭(蹴鞠用のフィールドのようなもの)が設けられていましたが、時間帯が早いおかげか人の姿はちらほら。
この場所には写真撮影用のスタンドがあり、そこから写真を撮ると「十三重塔」「神廟拝所(旧・講堂)」「権殿」の三つの重要文化財を画角に収めることができます。
大きなカメラを構えた方もおられ、観光客の方々と少々世間話などした後、一旦拝殿へお参りに行くことにしました。
拝殿にて参拝。
鞠庭から拝殿までの道を歩きます。
この道は、後ほどけまり祭の最中に談山神社の神職と蹴鞠保存会の鞠人たちが列を組み、社務所から本殿へ行進するコースの一部。
祭が始まる頃には蹴鞠撮影のために場所取りをしているので、本殿で行われる奉告祭を見ることはできません。ですので、気分だけでも同じコースを歩いてみました。
入山入口でいただいた袋に靴を入れて拝殿へ。
拝殿は、永正十七年(1520年)に創建された朱塗舞台造。中央の天井は伽羅(きゃら)香木で造られており、「千畳敷伽羅の間」とも呼ばれています。
折れ曲る東西透廊(すきろう/両側に壁がなく、柱と欄干からなる廊下)は本殿を囲む特異な形態。
談山神社はJR東海のCMに採用されたこともあり、拝殿から見える美しい青紅葉が話題となりました。
拝殿内には先に紹介した『多武峰縁起絵巻』などの宝物や資料を見学することができます。その中に「鞠」が飾られていました!
蹴鞠用の鞠は二枚の鹿の皮を馬の背皮で閉じ合わせて作られており、胡粉(貝殻から作られた顔料)によって真っ白に仕上げられます。
大きさは17~18cmほどで、重さは100〜110グラムほど。
中にはバレーボールやバスケットボールのような圧縮した空気は入っておらず、中空となっています。皮でできた紙風船のようなイメージ。
実は1950年代を境に鞠の作り手が途絶えるという危機に瀕したことがあり、談山神社で使われる鞠は、現在は桜井市の談山蹴鞠工房が制作を行っています。
鞠の製法を記した文献もないため手探りの復元となり、大麦を詰めては取り出して成形し、空気が漏れすぎないように、うまく跳ねるように試行錯誤を繰り返し作られているそう。
隆盛と衰退を経て伝統を現代まで保存てきた古代の遊戯。間近に見ることができると思うと、とても楽しみです!
時間は早くも9時40分ごろ。そろそろ鞠庭へ戻ることにします。
けまり祭が始まるまで。
けまり祭が始まるのは11時。まずは社務所前から行列がやってきて、鞠庭の前を通って本殿にて奉告祭を行います。
その後鞠庭に戻り、11時30分頃から蹴鞠が開始されます。
途中十三重塔を見物しながら…。
権殿前の階段から蹴鞠の祭場へ。
周りの見物客の皆様も同様に感じているようですが、幕を張っている範囲は意外と狭く見えます。
スポーツを行う場所だと考えるととして確かに狭く感じますが、蹴鞠には勝ち負けがありません。
相手が蹴り返しやすいように、優雅に鞠を蹴り合い、ラリーを長く続けるのが良いとされ、楽しい時間を共有するものなのだそう。
競技というより遊戯、遊びやゲームの感覚です。
蹴鞠を行うフィールドのことは鞠庭や鞠壺、懸(かがり)とも呼び、足元には砂を敷き、本来は東北に桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を四隅に植えます。
これは元木(四季木または式木とも)といって、高さは一丈五尺(4.5mほど)以下に定められ、鞠を蹴り上げる頂点の高さの目安としているそうです。
ここでは簡易なものとして切った青竹を立てており、根のない元木はきりたてといいます。
再び鞠庭周辺をぐるっと回り、神職の方が蹴鞠見物のおすすめスポットなどを教えてくださったり、色々考えた結果…。
鞠庭の周りは祭関係者や通路の妨げなどにならなければ自由な場所で撮影することができるようですが、南側は記者席となっています。
ですので西側の、「十三重塔」「神廟拝所」(とギリギリ「権殿」)が画角に入るこの位置から見物することに。
この場所は日差しを避けるものが無く、夏日予報の当日では一番過酷そうではありましたが、美しい境内を背景に蹴鞠の様子を写真に収められそう。
ちなみに神職の方がオススメしてくださっていたのは日陰になる神廟拝所側。更に神廟拝所の濡れ縁からなら、少し高いところから座って蹴鞠の見物ができます。
見物を終えた今なら、間違いなくここがオススメと言えますが…今回は十三重塔を一緒に撮りたかったので、日差しに耐えつつ祭の開始を待つことにしました。
時刻は10時の少し前。神職の方々が砂の中の小石を取ったりなどして場を整えています。少しずつ人が増えてきていますが、まだまだこれからといったところです。
30分後。
10時30分頃になると、神職の方が大幣を神棚に祀りに来られました。
そしてこの少し前からどっと見物される人が増えた感じです。桜井駅からバスで訪れる方々が到着したのでしょうか。
人気見物スポットの神廟拝所縁側にずらりと人が並び、階段にも座って蹴鞠の始まりを待つ方々が。
写真に写っていない部分では複数のテレビ局のクルーが準備を進めており、けまり祭の注目度が伺われます。
迫力満点の蹴鞠を観よう!
祭の始まり。
更に時間がたって、11時になる少し前。
照りつける季節外れの日差しと気温に汗をかいていると、社務所の方から爆竹のような音が上がり、道楽を奏でる楽人を先頭に、行列の行進が始まりました。
これから本殿にて奉告祭が始まります。行列についていきたいところですが、今日の目的は蹴鞠。奉告祭が終わって行列が戻ってくるまで今しばらくこの場で待つこととします。
その後11時40分頃、行列が鞠庭に戻ってきました。いよいよ蹴鞠が始まります!
解き鞠の儀。
古式ゆかしき鞠装束を身に着けた鞠足たちが、上座から順に位の高い鞠足が着席していきます。
鞠装束は、鳥棺子(えぼし)・鞠水干(まりすいかん)・鞠袴(まりばかま)・沓(くつ)で一揃え。色鮮やかでなんとも雅な装いです。
実は16世紀まで特に服装の決まりなどはなく、気軽に普段着で楽しんでいました。
運動の便から狩衣を着ることが多かったそうですが、室町時代ごろに長絹(ちょうけん/固くのりを貼った絹で仕立てた水干)を上衣とし、下衣は葛袴、立烏帽子(たてえぼうし)を被って、革で出来た鞠靴を履く様式となりました。
いかに優雅に鞠を蹴り上げるかを競う遊びですので、鮮やかな衣の袖が翻るように、今の形となったのでしょう。
さて、次は「解き鞠の儀」が始まりました。
下座の方が神職の方から楓の枝ごと鞠を受け取り、それを軒(鞠足の中で第一の上座の人)へ渡し、軒が楓の枝に結んだ鞠を解いて外します。
枝から鞠を解く際には、水干の袖で解いている様子が見えない様にするのが作法とのこと。
その後は鞠庭の中央に配置します。
これは置鞠といい、事前に調べた作法では「まず下﨟(げろう/最も位が下の人)の者が第四の樹の下から斜めに進み、中央から3歩ほどの所で跪き、爪先で進み、鞠を中央に置く」とのことでしたが、解き鞠を行った影響からか、今回は軒が行っていました。
次に蹴鞠のプレイヤーである鞠足たちが、上座から一人ずつ鞠の周囲に移動し跪きます。
今回の鞠足は八名。全員が八角形になるようポジションについたら、軒から順番に鞠を蹴り始めます。
これはいわゆるウォーミングアップであり、鞠の蹴り具合やクセを確かめているとのこと。
ひとりずつ鞠を蹴って、次の人に鞠を渡す、を繰り返し…そして…。
本番開始!
軒が「アリヤァ」という掛け声と同時に鞠を蹴り上げ、本番が始まりました!
「始めます」などの合図的なものは特になく、突然始まったのでびっくり。
初めはラリーが一度二度繋がっては鞠が転がっていく、という感じ。鞠が落ちた場合は、近くの人が拾い、鞠の形を整えて再開します。
鞠は前述の通り紙風船のような作りですので、蹴ると凹み、それをまた蹴ることで凹んだ部分が戻って蹴った部分が凹むを繰り返します。
青い空に白い鞠が高く舞い上がる様子は何とも爽やかで優雅な光景。
…と思いきや、鞠場は砂を敷いているのでものすごい砂ぼこりが舞います。風下からほんの少し逸れたところにいましたが、少々風のある日で目を開けられない瞬間もあるほどでした。
鞠足の皆様は、京都府で明治40年(1907年)より活動を続けられている「蹴鞠保存会」の方々。
そのうちのおひとりがマイクを持ち、蹴鞠についての様々な知識をお話しながら実況を行ってくれます。
曰く「砂ぼこりをたてないようにプレーする技術は持ち合わせておりません」とのこと。
ジョークを交えた軽快な蹴鞠トークとともに、プレーが続きます。
蹴鞠には様々な作法があります。
今回の蹴鞠会は八人立ち。これは「八境」といって、中央からポジションを八分割し、一つの区を一人の基本的な守備範囲として、域外に蹴出した場合はその区域の鞠足が受けて蹴ります。
自分の区域だけを守備する、という感じではなく、空いている場所のないように激しい移動を続けるので、想像以上にアグレッシブな動きが求められます。
蹴る際には右足の甲のみを使い、上半身は動かさずに、膝を曲げず極力足裏を見せなように蹴る、など、かなり細かくルールと作法が決められています。
中でも興味深いのが「アリ」「ヤア」「オウ」と掛け声をすること。「ヤア」「オウ」は現代でも聞きなれていますが、「アリ」という掛け声は珍しいと思いませんか?
これらの掛け声は、平安後期に存在した蹴鞠の達人「藤原成通」に由来するもの。
藤原成通はあらゆる才能の持ち主で、特に蹴鞠は後の世でも信じられないような素晴らしい技芸の数々が伝えられ蹴聖と呼ばれる人物です。
ある時、成道は蹴鞠の上達のために千日間休まず蹴鞠をする千日行を行い、それを成就しました。
その夜、成道の前に顔は人、手足身体は猿である3~4歳くらいの子供の姿をした鞠の精霊が現れます。
彼らの名は「夏安林(げあんりん)」「春楊花(しゅんやうか)」「秋園(しゅうおん)」といって、これが掛け声の由来となっています。
続いて第二席。
こうしてしばらく蹴鞠が続き、ある瞬間軒が鞠を鞠場の中央に返し、再び鞠足が鞠の周りに円陣を組み跪きました。
これで終了です。開始時の時と同じように一人ずつ退いていきます。
蹴鞠を終えるタイミングは、軒が決めます。蹴鞠保存会の方が「軒が疲れたり、おなかが空いたりすると終わります」と言うと観客から笑い声と拍手が起きました。
「解き鞠の儀」のあと蹴鞠開始から終了まで、時間にして大体15分弱ほどでした。
実はここまでが第一席で、このあとはメンバーを変えて第二席が始まります。
再び鞠の周りに上座から順番に跪き、全員が鞠の蹴り具合を確かめ、再び蹴鞠が始まります。
カメラ素人の筆者もなんとか鞠が高く上がっている瞬間の撮影に慣れてきました。
鞠足の動きも少しずつ調子が上がっていく感じで、鞠が高く上がり、観客からも歓声が上がります。
近くに鞠がきて鞠足が蹴り上げると、すごい臨場感。
鞠は紙風船のよう、と言いましたが、蹴った時の音は「ドッ」とか「ボッ」といったような、サッカーボール的な重い音がするのも迫力がありました!
こうして第二席も15分弱ほどで完了。あっという間の蹴鞠見物も終わりを迎えました。
この日は大変に暑く、日差しも強い日でしたが、お天気は抜群に良く。
鞠庭にもとんぼがたくさん飛んでいて、鞠足の独特の掛け声と跳ね上がる鞠と、のんびり空中散歩するとんぼたち、そして談山神社の美しい境内の風景がなんとも優雅で非日常な光景で、貴重な見物体験となりました。
欲を言えばもう少しだけ、紅葉が進んでいれば…また秋のけまり祭を観に行きたいな~!と蹴鞠の終わった鞠庭を名残惜しく見つめてしまいました。
アクセス情報
さて、談山神社へのアクセスですが、明日香村方面からは自動車、もしくはタクシーの利用がオススメ。
公共交通機関ではかなり遠回りになってしまいます。
談山神社から明日香村の石舞台古墳へは、一時間程度のハイキングコースがあり、山からの下山コースとなっています。
道中は一部車道を通ったり、鬱蒼とした箇所もあるようですが、明日香村の美しい棚田や、苔生した緑豊かな氣都倭既神社などもあり、良い季節には人気のハイキングコースでもあります。
行きはタクシーで、帰りは楽しくハイキングしながら下山してみるのはいかがでしょうか?
談山神社の場所
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